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日女御前御返事参考資料

正法、像法、末法

釈迦滅後、仏法流布の時を正法、像法、末法の三時に分ける。天台、伝教、日蓮大聖人は正法一千年、像法一千年、末法万年のほか尽未来際までという説を用いている。

本門の本尊

本尊とは根本尊敬の意で、根本とする哲理、経説を凝集した実体である。本門の本尊とは、法華経の本門の哲理を凝集し実体化したものという事になる。

顔淵

紀元前514483年。中国春秋時代の儒家。孔子の高弟。孔子より30歳若かったが、師より先に死んで「ああ天われを滅ぼせり」と孔子を痛嘆させた。彼の学風は、師の内省的求道の面を受け継いだもので、己に克ち礼に復(かえ)り、怒を遷さず、過をふたたびするなかれという師の教えを忠実に守った。

後五百歳

末法の初めのこと。大集経に説く釈尊滅後五番目の五百年を指す。

曼荼羅

仏が悟った菩提の境地とそこに具わる功徳を図顕したもの。御本尊。輪円具足、功徳聚、道場、壇などと訳す。

末法二百余年

第七十代後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承七年(1052年)が末法の第一年とされる。日蓮大聖人の御生誕は釈迦滅後

2171年、佐渡流罪が2220年に当たる。

多宝塔中の大牟尼世尊

法華経見宝塔品第十一において、多宝の塔が虚空に立ち、釈迦が中に入って多宝と並坐し、以後、嘱累品第二十二まで虚空会の儀式が展開された。これは釈尊己心の十界互具、一念三千を表している。

すりかたぎ

版木としてすりあげたもの。版木で刷ったものは版木の通りに刷りだされ、すこしも異なることはない。

宝塔

法華経の会座に出現した多宝の塔および虚空会の儀式を指す。日女御前御返事の前半には、御本尊は多宝塔中の釈迦・多宝をそのまま書き顕したものであることが述べられている。宝塔は仏法の奥底から見た場合我々衆生の生命に妙伏している仏界を表そうとしたものである。我々が想像もつかない偉大な仏界の生命が、我が己心に湧現することを説き明かそうとしたものである。

本有の尊形

本有の尊形とは色相荘厳のような特別の仏の姿のことではなく、十界の生命に本来備わった姿、形そのままをいう。

諸法実相

あらゆる現象の真実の相(すがた)のこと。森羅万象の諸法がことごとく実相、すなわち妙法蓮華経の当体であること。宇宙の究極の真実のすがたとは、南無妙法蓮華経であるという事。また、一切衆生が等しく仏界を具えていること。

妙楽云く「実相は必ず.

法華経方便品第二の諸法実相の分を釈した妙楽の金剛?論の文。実相とは生命の本質であり、諸法とは生命のあらわす変化相である。諸法は必ず十如を具えている。この諸法の十如は必ず十界のうえにあらわれていくのであり、また十界は必ず身土の上に実在するのである。

又云く「実相の真理……

天台の言葉。方便品に説かれる諸法実相の”実相”とは、その実体は本有の妙法蓮華経に他ならないという事。本有とは、もともと大宇宙と共に存在するという事。妙法蓮華経は森羅三千の体であり、一切の現象を起こす宇宙の根源の力である。

伝教大師云く「一念三千……

伝教の秘密荘厳論にある言葉。日蓮大聖人の仏法において、一念三千とは、事行の一念三千すなわち南無妙法蓮華経、自受用身とは久遠元初の自受用身である。すなわち人法一箇の御本尊をあらわす。自受用身とは「自ら受け用いる身」という事で、生命のありのままの姿を顕現した仏をいう。出尊形の仏とは尊形を出でたる仏という意で、色相荘厳の仏に対して、生命の姿そのままあらわした仏をいう。

強力

(ごうりき)険しい山道を行く場合、荷物を運んで道案内をしてくれる人。

善知識

人を仏道の導きいれる人をいう。 悪知識:仏道修行を妨げ、不幸におとしいれる者をいう。

胸中の肉団

凡夫の肉身の生命を指す。

九識心王真如の都

阿摩羅識(あまらしき)のこと。生命の最も奥底にあり、一切の汚れに染まることなく、常住不変である第九識のこと。真如とは、真実であって、虚妄を離れ、不変不改であることをいう。仏界の境界。

 

九識:眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜつしき)、身識(しんしき)、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、阿摩羅識(あまらしき)のこと。

第五識:感覚器官である五官を五識と呼び、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識をいう。

第六識:物事を判断し推量する心の働き、及びその結果生じた識を第六・意識という。

第七識は、末那識といい、思量と訳される。この識は意識の奥で絶えず活動を続け、強く深く自我に執着する心の作用を言う。

第八識:一切法を含蔵するので蔵識といい、一切の現象を生ずる根源となる識。業が蓄積されるところ。

輪円具足、功徳聚

輪円具足とは、輪が欠けるところなく、円いのと同じように全てのものが具わって欠けているものがないという意。功徳聚とは、功徳の集まりという意。

以信得入

法華経譬喩品第三に「汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って入ることを得たり、況や余の声聞をや」と智慧第一と言われた舎利弗ですら信じて初めて法華経の極理を会得したと説かれる。

正直捨方便

法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く。」とある。正直に方便権経(爾前経)をすてて法華経のみを信ずるという事。

不受余経一偈

法華経譬喩品に「但楽(ねが)って、大乗経典を受持して、乃至、余経の一偈をも受けざる有らん。」とある。余経(法華経以外の経)は一偈なりとも信受せず法華経のみを信ずるという事。このように純粋にして確固たる信心によって御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えていく事が成仏の直道である。

後生

死んで後から生まれること。来世の意。

止観の四に云く「仏法は

天台大師の摩訶止観の文。仏法の理は海のように深く広い。だが、信をもってのみ入ることができるのであるとに意。

外典に云く

漢王とは中国、後漢朝の創始者光武帝のこと。光武帝がまだ一武将の時、戦いに敗れ敵に追われて逃げる途中、大河にぶつかった。そこで家臣の中で最も信頼していた王覇をつかわし、視察させた。船がなくては渡れない状態だったが、王覇は真実をいうのにしのびず、河は凍っていて渡ることができると報告した。帝がこれを信じて前進したところ、たちまち河が凍ってしまったという。

李広父のあだを

史記の李将軍伝にある。李広は、虎に殺された父の復讐のため猟にでて、草原の中の石を父を殺した虎と信じ切って矢を射たところ、石は矢が立ったという。このことから石虎将軍とも呼ばれた。

五種の修行

法華経を修行する五つの行を説かれている。受持(経文を受持する)、読(経文を見ながら読む)、誦(暗誦する)、解脱(化他のために法を説く)、書写(経文を書写する)の事。この五種の修行は正像年間における釈迦仏法の修行法。末法今時においては、受持即観心で、受持をもって末法の正行とし、他の一切の修行を総摂する。つまり、御本尊を信じ受持することによって、御本尊の因行果徳を譲り与えられ、その力がその人の生命活動に現れるとされ、末法における唯一の成仏得道の方法とされる。

 

久遠元初

法華経寿量品では釈尊が初めて仏に成ったのはインドにおける今世ではなく、五百塵点劫という久遠の昔であったという本地が明かされています。そして更に五百塵点劫に成道することが出来た原因として、「我もと菩薩の道を行じて」(開結500頁)と、成道以前に菩薩の修行をしていたと説かれます。このように、釈尊の仏としての出発点は五百塵点劫ですが、それ以前に菩薩道を行じたということは、五百塵点劫が究極の根源ではなく、それよりも更に遡る根源があることを示唆しています。この五百塵点劫よりも遡る究極の根源を久遠元初といいます。ただし、久遠元初とは五百塵点劫よりも更に遡る過去の、ある時点ということではありません。久遠元初をある一つの時点であるととらえるならば、それがいかに遠い過去であったとしても、更にそれよりも遡る過去があるわけですから、究極の根源にならないからです。御義口伝に「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘(まま)と云う義なり」(759ページ)と仰せのように、久遠元初とは過去の一時点としてとらえられるものではなく、生命がその本来ありのままであることであることをいうのです。では生命の本来のありのままとはどのようにあることかといえば、それを大聖人は南無妙法蓮華経として説き示されたのです。この意味から「久遠とは南無妙法蓮華経なり」(759ページ)と仰せられているのです。仏とは、この南無妙法蓮華経という生命の真実の姿を自身に即して覚知した人をいい、この南無妙法蓮華経を自らの身に示し弘める仏を久遠元初自受用報身如来といい、本仏といいます。これに対し、自身を妙法の当体と覚るのはすべての仏の共通であっても、人々の機根や教化の順序から、説く法は、そこに至る途中までの真理にとどめる ――― あるいは、途中までしか説けない仏を迹仏といいます。五百塵点劫に成道したことまでしか明かさなかった釈尊も迹仏なのです。末法に出現され、南無妙法蓮華経を弘められた日蓮大聖人こそ久遠元初自受用身の再誕、末法の御本仏です。このように南無妙法蓮華経を直ちに行じ現じる時は常に久遠元初ですから、大聖人は「日蓮が修行は久遠を移せり」(862ページ)と仰せられているのです。大百蓮華1994年12月号より。須田晴夫副教学部長

久遠実成

如来寿量品第十六でインド応誕の釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に既に三身をそなえた仏であったと説きあらわしたこと。

五百塵点劫

如来寿量品第十六で明かされた釈尊が真実に成仏して以来の時の長遠を示す語。釈尊がインドに生誕して初めて仏に成ったと説いた始成正覚の説を打ち破り久遠の昔における成道を明かし、仏の寿命が永遠である事を示した。

三千塵点劫

法華経化城喩品第七にて、大通智勝仏の滅後から釈尊在世に至るまでの時の長遠であることを示す語。その長遠の昔に大通智勝仏という仏があって法華経を説き、その滅後にその仏の16人の王子たちが法華経を説いて多くの人を化導した。十六番目の王子が釈尊であり、その時に化導した衆生が在世の声聞達であるとの過去の結縁を明かした。

 

六種の釈尊

仏とは3千年前にインドに出現して仏法を説いた、釈尊一仏に限らない。三世十方の諸仏といわれるように、過去、現在、未来の三世に渡り、全宇宙に多数の仏が出現すると説いている。また、釈尊の説かれた経には小乗経から法華経本門に至るまで、低い教えから高い教えへと、さまざまに説法したが、その経教の内容によって、さまざまな「釈尊」の姿が示されている。つまり、釈尊の仏法上の地位は、説く教えの高低で決まる。様々な釈尊の姿が示された理由は成仏の根源法(南無妙法蓮華経)を巧みな手段を使って気付かせる為であった。末法今時においては南無妙法蓮華経の御本尊を顕した日蓮大聖人が本門文底の釈尊であることはいうまでも無い。

@蔵教の釈尊(小乗経)

A通教の釈尊(権大乗経・声聞、縁覚、菩薩に説かれた)

B別教の釈尊(権大乗経・菩薩のみに説かれた)

C法華経迹門の釈尊

D法華経本門文上の釈尊

E法華経本門文底の釈尊。末法の釈尊、つまり日蓮大聖人。


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