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新池御書(P1443)

この経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ、仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申し候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵は始は水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども觜(くちばし)よ目よと厳(かざ)り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさまし身なれども南無妙法蓮華経の唱えの母にあたためられ・まいらせて三十二相の觜(くちばし)出でて八十種好の鎧毛(よろいげ)生(おい)そろひて実相真如の虚空にかけるべし。

【通解】

この経の信心というのは少しも我見なく経文のとおりに、人の言を用いず、法華経一部に背くことがなければ仏になるのである。仏になるということは別のことではない。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく、唱えていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのである。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊のような仏に簡単に成るのである。たとえば鳥の卵は始めは水である。その水の中から、だれかがしたということもないけれども、嘴(くちばし)・目と身を荘厳するものができてきて、やがて大空に飛翔するようなものである。私達も無明の卵で浅ましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱題の母に暖められて三十二相の嘴が出てきて八十種好の鎧毛が生え揃い、実相真如の大空に飛翔することができるのである。

【語句】

三十二相八十種好:迹仏が応化のために、色相荘厳と備えて仏身をあらわす。

応化:仏が迷える衆生を救う為に時と衆生の機根に応じて種々に姿を変えて出現すること

如我等無異:「我が如く等しくして異なることを無からしめん」と読み、衆生を仏と同じ境涯にしようとの釈尊の誓願

無明:成仏を妨げる一切の煩悩の根源  

実相真如:実相とは妙法をさし、実相とは真実のありのままの意。

 

【解説】

大聖人が正しい信心の姿勢を「少しも私なく」「人の言用ひず」「他事なく」と仰せのように、信心の在り方というのは、我見や、仏法の教えを知らない人の言葉を信心の基本にしてはならないということです。あくまでも、仏法の教えに基づき、また「人の言」ではなく、仏の言葉に基づいて信心していくことが肝要であると仰せられています。

 

「法華一部に背く事無ければ」とは、法華経の教えに微塵も背いてはならないという厳しい言葉です。私達凡夫は法華経以外の、ときには外道や俗信をもとにした見方や考え方を、知らずしらずに仏法であるかのように思い込んでいることがあるものです。どこまでも法華経に説かれたことを根本とすべきなのです。これが、「此の経の信心」であり、この姿勢が貫かれて初めて、「仏に成り候」と教えられているのです。

 

正像未弘の大法である三大秘法の南無妙法蓮華経を「私」なき信心をもって受持するならば、成仏ができることを、鳥が卵から生まれる姿を例に示されています。「別の様は候はず」「やすやすと成り候なり」とは爾前経に説かれるような歴劫修行ではなく、ただ、妙法を受持することによって成仏できるということです。仏性は本来あるが、それがまだ現れていない凡夫の生命を「無明」の卵と譬えられています。正しい信心を貫くことによって本来もっている仏と成ることを卵のふ化に譬えられているのです。ここで「三十二相八十種好」とあるのは、色相荘厳の仏を指すのではなく、仏の生命のもつ尊さを具体的な形で表現したのが、「三十二相八十種好だからであり、仏界の生命が涌現したときに開花するその人のすぐれた特性を意味しているともいえます。

大白蓮華1995年8月号



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